沖縄戦時写真 返還プロジェクト

ー聴こえますか? 平和の礎となった、彼ら兵士たちの声がー

 

                              和田寺住職・タオ指圧師範 / 遠藤喨及

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突然、フェイスブックに、アメリカからメッセージが入ったのは、深夜近く。

それは、まだお会いしたことのない、一人のアメリカ在住の日本人女性の方からでした。

「遠藤喨及先生、はじめまして。先生のお弟子さんのデボラの友人、すみこと申します。

 先生に折り入って相談がございます。現在手元に、とても大切なものを預かっています。

 実は、アメリカ人の友人の祖父が、戦時中、沖縄の海岸に埋めてあった日本人の写真等を、自国に持ち帰って来てしまったのです。

 写真の数は半端ではありません。中には名前の記してあるものもあります。名前入りの写真は軍服を着ています。

 そこで先生にお願いがございます。写真をネット公開し、ご遺族への引渡しを和田寺で引き受けていただけないでしょうか?

 大切な写真を海岸に埋め、命からがら逃げたか戦争の犠牲になった方のものを、持って帰って来てしまったんだと思います。

 お会いしたこともないのに図々しいことを言ってごめんなさい。お返事お待ちしています。」

そして、以下のようなやり取りが始まりました。

遠藤:沖縄には以前住んでいたことがあるので、コネクションがあり、新聞社等にも当たってみることができると思います。

すみこ:先生、ありがとうございます。どうも、出身地の異なる人たちが、それぞれの大切な写真をごそっと集めて埋めたようです。お寺で供養していただけますか?

遠藤: 供養については、もちろんさせて頂きます。

すみこ:ありがとうございます。一人でも二人でもご家族の方が見つけて下さることを祈っています。

また、もし見つからなくても、たくさんの方の目に触れて、皆さんが祈って下さったら、写真の方々の魂が喜んでくれるに違いないと思っています。

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そして、このプロジェクトをお引き受けすることになったのです。

 メッセージを送って来られた、すみこ・バイニンさんは、栃木県栃木市出身の方。2003年よりアメリカに在住されています。

 すみこさんの話によると、写真を持ち帰ってきてしまったアメリカ軍人はお友だちの義理の祖父です。また、かつて海兵隊第6師団に所属し、

戦争の体験についてはほとんど語ることなく、2007年に他界したとのことです。

 お友だちのクリステンはアメリカ人ですが、幼児期に日本で暮らしたこともあり、この写真を見たとき、悲しみと怒りがこみ上げてきて

「ぜひ、日本人の友人である、すみこに写真の遺族を探してもらいたい!!」と、ジョージアから持って帰ってきたそうです。

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<お願い>

 どうか皆さま、当時沖縄にいたというご親戚等がいらしたら、これらの写真をお見せして、心当たりがないか、尋ねてみては頂けないでしょうか?

また、フェイスブックやツイッター等でも呼びかけて頂けないでしょうか?

 沖縄は本土の楯となるような形で戦場となり、戦火に包まれ多くの被害者を出しました。たくさんの子どもたちが亡くなりました。たくさんの大人も亡くなりました。

そんな多くの人々の犠牲の上に、戦後の平和は築かれています。

 沖縄は今も尚、土地の多くを米軍に基地として使用され、未だ本土の犠牲になっていると言っても、決して過言ではありません。

 私は信じています。ご遺族に写真を返還するための努力は、戦争の犠牲になった方々のたましいの供養であり、同時に私たちがもう一度歴史を見つめ直すことだと。

 またそれは、これからの平和な世界を創っていくための、未来に向けたメッセージでもあることを、、、。合掌

※写真は、すべて下記アドレスに入っています。

 http://www.flickr.com/groups/okinawa-photo-back/

<追記>

 ”すみこさんが、今回このような役割を取ることになった因縁は、一体何なのだろうか?”と、僕は考えていました。

因縁とは、目には見えない背後の働きのことです。人生で起こるすべてのアレンジメントは、背後にある因縁によるものだからです。

 そんな矢先に、すかさず情報が入って来ました。

 まず、すみこさんのご祖父もまた、先の大戦で亡くなっています。ご祖母は、10万人が亡くなった東京大空襲に遭いました。

そして命からがら、残された家族7人を連れて、田舎に疎開しました。

 そして7人家族を養うため、やむなく、栃木市の任侠の親分の庇護を受けて芸者をされた。

 上野に稽古場を持ち、三味線と日舞の師匠までされるほど才能豊かな女性が、そういうことをしなければ、生きていけなかったのです。

 さて一方の僕自身は、どのような因縁によるものなのか? もっとも、こんなこと頭で考えても、わかることではありません。

 しかし先の大戦との関わりを考えると、僕の父親は駆逐艦に乗っていました。しかし米軍の魚雷攻撃で沈没し、漂流して助かったそうです。

 また末期の日本海軍は、人間魚雷(海の神風特攻隊)の志願者を、半ば強制的に募っていました。

 しかし部隊の中で、僕の父親ともう一人だけが志願しなかったそうです。

 僕は、まだ幼かった息子と、「一体、勇気がなかったから志願しなかったのか、それとも勇気があったから志願しなかったのか?」。

父親が亡くなった後に、このテーマでディスカッションしていたことがあります。

 一方、僕の母親は戦時中、女子学徒動員で落下傘を作っていたそうです。毎晩空襲警報のサイレンを聞いては、防空壕に逃げ込んでいました。

B29(米軍が使っていた爆撃機)が爆弾を落とす音は、ほんとにイヤだった、と言っています。

 実は、母親が隠れていた防空壕に直撃弾が当たったことがあり、爆発していたら死んでいたけど、不発弾だったから助かったそうです。

 そして、僕の最初の仏教の先生は、元ゼロ戦のパイロットでした。神風特攻隊の生き残りでした。

 いざ出撃の日に「おまえは寺の息子だから、これから共に出撃する仲間のために、お経を読み上げてくれ」と言われ、

お経を書いて読み上げていたら、終戦を告げる玉音放送があって、、、。

 戦後は、やり場のない想いを持て余し、山に入って念仏修行に打ち込んだ、と聞いています。

 先の大戦は、単に文字に書かれた「歴史」では決してありません。今日の中に含まれていると、僕は思います。

またそう思わなければ、再び同じ過ちを犯すことになるのではないか、とも思います。

 平和憲法を否定しようという動きがある今こそ、今日の中に含まれている過去を問い直すべき時です。

戦時写真の返還は、きっと、そのきっかけを与えてくれる。そう、僕は信じています。