「ラカイン維新の実現なるか」

―UNI第2回コックスバザール訪問2008年―

遠藤喨及(えんどう・りょうきゅう)

 

第一章 ラカインの学生たち

ユニセフもワールドビジョンもできなかったこと、そしてこれからもし得ないだろうことを今、UNI(NPOユニ)は実現しようとしている。

あらゆる出会いは必然だと言うが、昨年の訪問からUNIが願って来た方向性が、 今回の訪問によって、思いがけず現実性を帯びて来たのである。

大げさな言い方が許されるならば、もしかしたらUNIは、-つの民族の新しい歴史の1ページに立ち会うことになるのかも知れない。 そんな予感に僕は、魂が打ち震えるような興奮を思わず感じてしまった。

しかしどうやらそれは、僕一人だけではなく、他のUNIメンバーも同様のようだった。

もちろん、ラカイン(バングラデッシュの少数民族仏教徒)の学生たちも。

 

走れメロス

タイの空港の閉鎖騒ぎの影響で、チッタゴン行きのフライトは飛ばなくなった。

そう、タイ航空から連絡があったのは、出発一週間ほど前のことだった。 カナダでのワークショップを終え、ようやく、十数時間のフライトの果てに自宅に戻って来た朝、東京に行っているまゆさん(妻)が書いたメモを見たのだった。

となると、ダッカ経由で行くことになるのか・・・。

 

僕は思わずため息をつきそうになった。それには、理由がある。 昨年行ったチッタゴンであれば、そこから車で3時間半か4時間乗れば、目的地のコックスバザールに着く。空港には、ラジョー氏が迎えに来てくれている。

やっかいなことは何―つない。簡単なもんだ。

しかし、これがダッカとなると、話は違って来る。 まず、バスで12時間と聞いている。

それに、そんな遠い所まで、まさか迎えに来てもらうというわけには行かない。 また、たとえラジョー氏が来ると言っても、僕がお断りする。

“一体、誰が往復で20時間以上に及ぶような迎えを、のほほんと受け入れられるというのだ? 何様じゃあるまいし・・・”と、自分で思うからだ。

 

実はダッカには、25年以上前に、最初にインドに行く途中に一泊したことがある。

ちょうどクーデターが起きた日か何かで、深夜の街に戦車が駐車していた。 あの頃の、ダッカやカルッカッタの空港のイメージと言えば、出たとたんに、人々の波に“ワッ!”と取り囲まれるというものだった。 タクシーやホテルの客引き、乞食の一群。彼らの救いようのない貧しさ。

その全存在での表現に息を呑む。そんな中で押し合いへし合い、また時にどなり合いながら、大丈夫そうなタクシー(まず、ほとんどは白タク)を探し、結局はボラれたりしながら、安宿まで行く。

そうして、みんなで1部屋だけ借りて、そこで休憩した後、さらに夜行バスの発着所まで、たどりつかなければならない。

そして、さらにそこから12時間・・・。やれやれ。

 

まあ、そんな感じのハード・ストーリーで、25年前は、インドを何度か旅していたわけだ。 そういえば、あの頃の旅人同士の会話では、インドは永遠に変わらないだろう、というものだった。

最初に行った時のカルカッタのハウラー駅などは、地獄絵図そのものだったのである。

(しかし、その後は、ずい分と、変わってしまったが)

しかしダッカは、変わっていないだろう。きっと乞食が群れているに違いない・・・。

去年だって、車がチッタゴンに入り信号で止まると、乞食が窓を叩いて物乞いをしていたしなあ・・・。 そんな遭遇の結果は、お金をあげてもあげなくても、感じるのは胸の痛みと自己嫌悪である。

胸の痛みは、彼らの境遇へのもの。自己嫌悪は、何もできない自分、先進国に生まれたが故に、相対的に富める自分に対するものである。

 

だから正直な所、“ダッカ経由は、カナダから帰って時差ぼけも取れない数日後に出発することになるし、できれば避けたい”というのが本音だった。 その日の内に、ヨーロッパとカナダに電話して、延期を打診するが、どちらも、チケットは変更できないという。

オーストリアのNPO・UNIメンバー、オリバーなどは、僕が“ダッカ経由はしんどいからなあ、できたら来年にできないかなあ”というと、心底ガッカリしたようだ。“じゃあ、僕らだけで行く意味があるんだろうか~?”と、

しょぼんとした情けない声が返ってきた。

オリバーたちは、14日には、ダッカ入りすることになっているのだ。

 

“・・・これは行くしかないな”というのが、その日のうちに出した僕の結論だった。

しかしダッカ経由などのような、しんどい行程では、あまり日本から人は連れて行けん。

物理的、人情的、あるいは意地でも何でもいいのだが、キャンセルできない者だけがいけばいいのである。

結局、オリバーに再び電話をかけ、“おう、絶対どんなことがあってもダッカに行くからね!。

キミらだけをダッカに置いておくなんてことは、決してしないからね!”

なんて、青春ものドラマみたいに、クサイせりふを吐いてしまった。

まるで気分は「走れメロス」である。

 

コックス・バザール到着

そんなんで、予定変更のため、出発までは、

信じられないような過密スケジュールでのすったもんだがあった。

しかし今はもうみんな忘れてしまった。だから書かない。というより書けない。

まったくの余談だが、なぜか僕は、過去の苦労をあっと言う間に忘れてしまう傾向がある。 しかもこのダッカ行きには、出発の2、3日前に、さらなる、どんでん返しがあった。

 

というのは、ラジョー氏が、空港までダッカ在住のお兄さんを迎えに寄こしてくれるというのである。

しかも、みんなが乗れるミニバスで、コックスバザールまで誰かがリレーでガイドしてくれるという。 あとは、ただ乗っていればコックスバザールへ着く。

だから12時間のアジアの危険運転と、激しい車の揺れだけを我慢すれば良いのである。

なんとまあ、ラッキーなことよ。友情バンザイである。

ここで、“覚悟していたメロス度がちょっと落ちたな”などと言ってはバチが当たるというものである。

 

ダッカの空港に集まったのは、ヨーロッパからのオリバー、バーベル。

カナダUNIのリー、ゆたかさん、そして僕の5人である。

(日本からの第二陣の3人、まゆさん、まひろさん、あつこさんは、この2日後に到着することになっていた)迎えに来てくれたラジョー氏のお兄さんは、温厚そうな人だった。 深夜1:30、コックスバザールのラジョー・ハウスに到着。

食事もせず、休憩もせずに、飛ばして走り続けた。

お兄さんとチョバさん、リレーガイドまでしてくれてありがとう! 深夜の夕食であった。

 

12月16日 出会い

翌日の午後から、修復を必要としているラカイン人の精神的象徴でもある

パコダ(仏舎利塔)を視察し、ラジョー氏らとミーティング、さらに国際ユニ会議。

ミーティングや会議は、実に数時間にも及び、数多くの問題が討議された。

 

そして、その夜である。いつものように、夕食を終えた僕らは、ロウソクと敷物をしいた屋上で、ラジョー氏らを交えて、ラカイン酒を飲みながら星空ミーティングをしていた。これは昨年からの毎夜の恒例である。 そこに我々のことを聞きつけた、ラカイン学生協会のメンバーが6人やって来たのだ。

後で聞くと、彼らはUNIが何をやっているのかも知らなかった。

ただ青年らしい好奇心で来たもののようだ。

 

彼ら学生たちを交えての話し合いは、すぐにラカインの将来についてになった。

彼らの話は、

“僕らはやる気も十分にあります。そして実力もあります。

しかし将来の機会だけがありません。また、僕らは世界とつながりたい”

というものだった。

 

“僕たちは、UNIでは、ラカインの学生奨学金制度について話し合っているんだ。

ただしその条件として、奨学金を受け取った人は、将来、収入の内、5%から10%の布施をする。

そしてそれを、ラカインUNIで管理して、他の人のための奨学金にしていくというシステムなんだけど、どう思う?”と言った。 これを聞いた彼らの目は、輝いた。そして、“それはとっても良いアイデアだと思うし、

ありがたいことだと思います。

実は自分たちでも、カンパを集めては、お金のない女学生の学費を支援したりしているんです。”

と言うのだった。

 

そこで、“ラカイン学生協会としては、その他に、どんな活動をしているの?”と聞いてみた。 すると、

“これからのラカインに必要なのは、英語力とコンピューターだと思うんです。

だから、今、仏教福祉センターの2階を月2000タカ(現在のレートで約3000円)で

借りて、英語教室とコンピューター教室を開いて、ラカインの子供たちに教えています”

という。

 

どうやら彼らは、本当にラカインの将来を考えて行動しているようだ。 しかし、3台あるパソコンも、今は、たまたまお金持ちに借りているだけなので、

来月には返さなくてはならないという。

 

僕は言った。

“もし、現在バングラデシュに数万人いるラカイン人が、すべて収入の5-10%の布施をしたら、それだけで大きな経済的な力を持つことになる。

もしそれが実現すれば、それは子供たちの教育や奨学金だけでなく、ラカインの人がビジネスを始める場合に、低利で融資を受けられるような、ラカインUNI銀行をつくることさえできる。

実は、優秀な学生に奨学金を出して、その学生が将来仕事についたら、収入の一部を布施することで、さらに他の学生を支援していくというシステムの最終目標はそこにある。

ただ単に教育支援をしたり、個人に奨学金を出すという自己完結的、個的な満足にあるわけではないんだ。 (僕にしてみたら、例えば、援助を受ける側は、“やった! ラッキー!”と思う。

そして、援助をした側は、“わたしら、何か良いことしました”と、

どちらも自己満足に浸るなどという構図では、恥ずかしくて顔も上げられん・・・と、思う)

もし、そのー点で君ら学生が同意をするなら、ラカインの人々の未来のために、一緒にそのプロジェクトに取り組むことができるかもしれない。

滞在中、何度かミーティングを重ねて、お互いの目標が合致するようなら、UNIの僕らと君らとで、まずは、パソコンを購入する相談をすることにしよう。”

と言った。 彼らがその言葉で、それまで張り詰めていた全身の緊張を抜いた安堵のため息が、

僕には、はっきりと聞こえたような気がした。

“そうか。来月からパソコンをどうするか、思い悩んでいたんだな”と僕は思った。

 

第二章 明治の青年群像とラカインの学生たち

 

12月17日 チョドリパラ村へ

ラジョー氏たちも交えてみんなで朝念仏した後、UNIで支援しているチョドリパラ村の小学校を訪問する。ビルマ国境近くなので、車で2時間ほどの行程である。 この学校は、ラカインの将来を憂う老僧の奮闘努力によって運営されて来た。

UNIは補習クラス分の先生の給料をサポートしている。 生徒たちが入り口に一斉に並び、花を持って迎えてくれる。バーベルは感激して、はや涙ぐんでいる。

そして来賓席に座っての授業参観。

UNIのメンバーも、生徒さんたちに語るように求められる。 みんな思い思いの言葉を伝えた。聞いていて感心する。

また、ゆたかさんが、ロックコンサートもみたいに明るく盛り上げたのも良かったな。

老僧からは、教室の雨漏りがひどい、また学校前の小橋がくずれ落ちそうなので、雨季までに何とかならないかと相談を受ける。

(これらは、UNIの懸案事項として、後にディスカッションされることになった) また別の孤児院の僧侶と生徒が来ていて、ぜひ見に来て欲しいと要請されるが、今回は無理だった。

 

そして村のチョバさんの家でお昼をご馳走になるが、それはまさに、ご馳走としか言い様がないしろものだった。 こんな料理は、彼らはお正月にだって食べないんじゃないかと思った。

聞けば、大人数で3時間半もかけて料理してくれたという。

料理から僕らをもてなしたい、という想いがひしひしと伝わってくる。

この時の料理については、後々までみんなの語り草になったほどだった。 その上、昼間からラカイン焼酎まで振舞われ、まるで正月だ。

村の人たちも入り、げらげらと笑ったりして、楽しいひと時を過ごさせてもらう。

 

ラジョーハウスに帰宅後は、恒例の星空ミーティング。

みんな真剣で、話はいつまでもつきない。

この深夜には、まゆさんたち一行が到着するので、結局、

1:30AMまで、ミーティングしながら待ってしまった。

プロジェクトの話は尽きることがない。

 

翌日も朝念佛で、朝が早いというのに、みんな大丈夫かなぁ。 1:30am 日本からの2陣が到着。ふぅー、お疲れさまでした。

日本からタイ経由で来て、ダッカから12時間の乗車で大変だっただろうけど、

明日からハードスケジュールだぜ。(かけねなしに、あしたのジョーのようなハードさです。)

 

12月18日 UNI小学校へ

現地での朝念佛は面白い。ラジョー氏は念佛でも般若心経でも声にリキが入っている。

今日の導師はオリバーが勤める。そして朝食となるが、このあたりから、

ゆたかさんの具合がとても悪くなる。ゆたかさん、戦線離脱。

 

ラカイン学生の行っているパソコン教室を見学後、クルスクル村のUNI小学校へ出発。

ここは、ワールドビジョンが撤退したために閉鎖されていた学校で、

UNIが5人の先生方の給料をサポートすることで再開した。生徒数、約75人。

ここでも花束で生徒たちに迎えられ、授業参観たの後、子供たちと遊ぶ。

サッカーしたり折り紙を教えたりと、みんな忙しい。でも子供たちと楽しそうにしていた。

 

また、まゆさんたちは子供のお母さんを交えてのミーティング。

ラカインの布などの工芸品を海外で売る可能性について。

職員室では、僧侶である校長先生を交えてのミーティング。

ここでの要請もトタン屋根の雨漏り修理である。

ここは、大工のスキルがあるUNIメンバーの自由さんに来て欲しいところだ。

また、諸物価高騰による給料のアップの希望。

確かに安い給料でやってもらっているのは事実だが、補修クラスの増設などの工夫を入れながら、慎重に行いたい。

昼食後、ゆたかさんの具合が悪いので帰って来て欲しいと、ラジョー氏の奥さんから電話。

僕はすぐにラジョー氏のバイクの荷台に飛び乗った。

 

まずは自己紹介から

夕方6時から、学生たちとの第一回ミーティングを行う。 ミーティングは食堂兼居間で、学生たち8人とUNIメンバー6人、それにラジョー、チョバ両氏も交えて行われた。

両氏には、UNI側、つまり大人側の席についてもらった。

それには訳がある。というのは、将棋などのゲーム観戦している時は、

自分の側に座っているプレーヤーに対する味方意識がどことなく生じる。 僕は、ラカインと非ラカインという構図にしたくなかったので、彼らにUNI側に座ってもらったのだ。だから、みんなが座った位置は、学生側と大人側という、世代の対比となった。

まず、各自で自己紹介をした。学生はそれぞれ専攻などを言えば良いのだが、UNIメンバーの自己紹介はちょっと困った。というのは、バーベルなどは、学校の先生といえば、それで終わりでシンプルなのだが、指圧セラピストなどという職業はここには存在しない。

 

そういえばインドを旅していた時、定食屋みたいな食堂で相席したインド人に

“おまえの職業はなんだ?”と聞かれて説明に困ったあげく、

“マッサージみたいなもんかな”と答えたら、哀れむような目をした後に、黙ってしまった。

インドでマッサージと言えば、それは低位のカーストのする賎業だったからである。

(インドではカーストが違うと食事の同席もしない)

もっとも、仏教徒であるラカイン、ビルマ、タイなどにはカーストはない。

そして決して、そんなことにはならないのは百も千も承知だが、

じゃあ、“僕は坊主です”って自己紹介したら良いのかというと、

ラカインなどの上座仏教では、さらに話が複雑になる。

まず、ここでは坊主が夕食を食べたり、ましてや夜の屋上で、星空ミーティングと称して酒を飲んでいるなどということはない。 上座仏教の僧侶は、昼食以降は食事しないし妻帯もしない、ましてや職業につくこともないのである。

常に僧衣を着ているのが僧侶で、僕のように、タオ指圧のトレーナーなんて着込んでいることもない。 ここでは僧侶は、仏法僧という三宝であり礼拝の対象である。

ラジョー氏も、お寺に行って僧侶がいると、五体投地して挨拶しているぐらいである。

(相手にもよるが、彼がすると僕も真似している。)しかし僕は、そんなことされたら困惑するだけだし、現地にない職業の何たるか

を説明している時間があったら、ミーティングに時間を使いたいと思った。 それで結局、僕を含めてUNIメンバーのほとんどは、

居住国と名前、“UNIメンバーで~す”などという自己紹介でお茶を濁すことになった。

 

明治の青年たちに重ね合わせる 開口一番、僕の口から出てきたのは、なぜか明治維新の話であった。 “約100年前、日本に欧米の列強が来ました。

だから日本はその時、いつ植民地になってもおかしくなかった。

しかし、その日本にほぼ無血の革命をもたらし、独立を維持させたのは、20代の若者たちだったんです。一番の年嵩でも、せいぜい30歳くらいまででした。”と。

 

余談になるが、僕はオリンピックの柔道で韓国が日本に勝つと喜ぶぐらいナショナル・アイデンティティも節操もない人間だ。しかし、少なくとも次の2点においては、客観的に日本の歴史を高く評価している。

 

第一は、遣唐使の派遣。日本は中国から、当時の最先端の学問や技術を学ぶために、毎年だったか3年に一度だったか忘れたが、毎回、国家予算の三分の一も使って、のべにすれば相当の数の遣唐船を出している。 しかも、その内の半分だか三分の一は難破して帰って来ないというのだから、まさに命がけである。中には唐への派遣命令が来たから逃げるなんていう人もいたぐらいである。 学ぶことに、まったく物惜しみしなかったことは、実にあっぱれだと思う。

 

次は開国の前後。当時の日本は、早急に軍備を整える必要があった。

でなければ欧米に植民地化されてしまう。

そこで、軍艦などの軍需品を、すべて正当な金額でイギリスなどから購入した。 これが“私ら遅れている国ですけん。援助してくだせえ。それがだめなら、せめてマケてくださいよ、ダンナ”などとやっていようものなら、見下されただろうし、独立国としてのプライドだって保てなかったことは明白である。

ようがんばったな、明治政府。

しかも、円高の今日このごろでなく、やっと開国したばかりの後進国日本が、当時の換金レートで購入しているのだ。それらの買い物は、相当の国家予算を惜しみなくつぎこんだものだったと思う。

繰り返しになるが、援助を受けたのではなく、正規の金額で購入していたのだ。

だから欧米にとって、日本はお客様であった。

(買い物をすると、お客さまは礼を言われる。消費者は神さまだ)

また欧米の指導教官を、かなりの高給で雇っていた。

だから、雇われている側にしてみれば、明治政府は上司だったわけである。 当時は、“武士は食わねど高楊枝”(サムライは、腹が減っていても、満腹のフリをする)ぐらい、無理をしていたんではないかと思う。しかし、やはりサムライの意地っつうか、誇りっつうもんがあるしな。 まあ、結果的には、それが良かったのだと思う。

そしてこの政府を導いたのが、当時の若い年代たちだったのである。

 

彼らにここまで詳しくは話さなかったが、僕がなぜ、ラカインの学生たちに明治維新の青年たちについて話したのかと言えば、それは、彼らとの関係を“援助する側とされる側”という図式にしたくなかったからである。

僕はUNIのスタンスとして、ラカインの学生たちと共に協力し合う関係を創り上げたかった。

 

なぜなら、バングラデッシュという国自体が、海外からの援助で成り立っている国で、至るところに援助体質が浸透している。就職もほとんどが縁故で決まる。

だから確かに少数民族の入る余地はなかなかない。

しかし、だからと言って、かつてのアラカン王国の末裔であるラカイン人が、

バングラデッシュの援助体質に染まり、その誇りを捨てるようなことはして欲しくない。

またUNIとしては、その誇りを奪い、また能力をだめにするような、一方的な援助活動にはしたくないと思うのである。

 

かつて国を奪われたユダヤ人たちだって、援助もなく、それぞれの国で

弁護士や医者などのクオリティの高い職業について来たではないか。

明治維新の青年たちと彼らを重ね合わせるような話をしたのは、

この時点ではまだ無意識に促されてのことだった。

しかし、どのようにUNIと学生が協調し合い、かつラカイン維新のための活動に

何が必要かは、連日のミーティングなどで、後日、少しずつ明らかになっていった。

 

そして僕は、“ラカインの未来を創るのは、君たちのような若い世代です。

古い人たちにはできません。やれるとすれば、君たちしかいないと思う”と言った。

 

次いで、UNIが現在、三つの学校をサポートしていること(彼らはUNIが何しに来ているかを知らなかった)、パコダ(仏舎利塔)の修復も考えていることなどを伝えた。

そしてこの日、再度に亘り繰り返し、彼らの納得が行くまで説明したこと。

それは、ラカインの布施ネットワークを教育等に還元し、さらにラカイン経済圏を創ることで、豊かな未来を築くシステムのアウトラインである。

(数世代かかるかも知れない、とも言ったが)

 

そうして彼らが、ようやくその基本的な考え方をイメージ的にも理解し、賛同を確認したところで、その具体的な活動についてのミーティングを、明後日のパコダの清掃後に行うことを約して解散した。

まずは、UNIと学生協会がパコダの清掃を一緒に行うことだ。

 

第三章  プロジェクト、新しい段階に入る

 

12月19日 ユニ子供の家へ

いつものように朝念仏の後、UNI子供の家のあるアリコドンへ出発する。

4時間の行程だそうだ。 僕は病いに倒れたゆたかさんの看護のために行かなかった。

それで、実際の状況は見聞きしていない。

だが、まゆさん等の出発前、運営するニャニカ僧侶とは、次のようなディスカッションをして欲しいと、問題の解決を一行に託したのであった。

 

それは、Ophenage(孤児院)という言葉から生じてしまった、厄介な問題である。 これは、今回の滞在最後の日になってようやくことの真相がわかったのだが、貧しい家が子供をお寺の寄宿舎に預ける宿舎を、現地では“Orphenage(孤児院)”と言うのであった。

ところが僕らは文字通りの孤児院と解釈したので、ここに問題が生じることになった。

つまり、世界各地のUNIで、親のいない孤児の里親を募集したのである。

 

当然、孤児の里親と思って応募してくれる人たちがいた。

しかし、UNI子供の家がスタートした後に、厳密に調査をしてみると、

実際の孤児も2人いるが、残りは、みな家が貧しいために預けられた子供たちであった。

 

さて、困った。僕はニャニカ僧侶に手紙で“これでは、UNIがウソつきになってしまうではないか。”

と厳しく批判する一方で、日本のUNIから、先生方の給料や子供たち20人の食費は送り続けた。

しかし、里親希望者の受け付けは、一時凍結せざるを得なかった。

 

しかし、長時間の熟慮とディスカションの末、ここでも布施ネットワークのシステムが実践されるなら、いずれは外部からの援助に頼らなくてよくなるし、里親には、了承してもらった上でなってもらえば良いのだから、問題ないのではないか、という結論になった。

 

何年後になれば、卒業生による布施だけでUNI子供の家を運営できるようになるのか?

その調査とシュミレーションは、後日、学生に頼んだ。

 

もし実現すれば、10年後か20年後には、さらに、他の場所の子供の支援すらできるようになるだろう。 このシステムの導入には、ニャニカ僧侶に理解協力してもらう必要があった。

 

僕はラカインが不遇な境遇から開放されるには、三つのことが実現することによって可能だと固く信じている。

第一は、ラカインが精神的支柱とする仏教の布施の実践によって、これを教育に還元し、豊かさの創造をシステム化すること。

第二は、ラカイン・ネットワークによる相互補完的な経済圏の確立である。

第三は、新しいビジネス・モデルと、ラカインのビジネスをサポートするためのラカインUNI銀行。

 

だから僕は、ニャニカ僧侶には、子供たちに布施の心を育ててもらうことを切実に願っている。

貧しさは、布施によって他に与えることによってしか、真の解決はあり得ないと思うからだ。

それが精神的なことであろうと、また物質的なことであろうと。

 

さて、アリコドンに到着した一行は、子供たちはもちろんのこと、村人総出で花束を持って迎えられた。 しかし、ニャニカ僧侶とは、膝詰めで話し合わなければならなかった。

・・・その結果、ニャニカ僧侶とUNIは合意。UNI子供の家へは、援助の必要がなくなるまで、引き続き支援していくことになった。

ところでアリコドンは、独立運動をしている別の少数民族の住む地域なので、訪問には特別の許可証を必要とする。行程には、いくつものチェックポイントがあり、途中から、小銃を持つ警官がずーっとつきそって来たとのことだった。

ただし、尾根を越えていくアリコドンの自然の景観は、とてもきれいだったとのことである。

 

12月20日 パコダ(仏舎利塔)の清掃

今日は朝からパコダ(仏舎利塔)の清掃である。

必要な道具を市場で購入し、パコダに向かう。

UNIメンバーと後からやって来た学生たちで、休まずに午前中一杯、パコダ地域の掃除をする。

細かいゴミが多く、汚れもひどい。なかなか大変である。

動物の糞すら落ちている。拾っては捨てを、ひたすら繰り返す。暑い。汗をかきかき続ける。

 

原因のーつは、ムスリムの人たちがパコダを汚してしまうということにもある。

ベンガル人たちも貧しい。パコダの下に小屋を立て、不法に住みついてしまったりしている。

別のパコダは、彼らにふもとの土が削り取られてしまったため、倒壊してしまった。 パコダ問題は、汚れなどを放置してきたラカイン側にも責任があると僕は思った。

 

だからUNIメンバーは、掃除の意義を肌で感じてもらおうと、きめ細かく、ひたすら掃除していった。

僕などは、イヤミな姑が嫁イビリするように、まるで見せつけるみたいに掃除していた。

リーに聞いたら、彼女も女学生たちに、手とり足とりだったようだ。 しかし、それどころか僕などは、立って話し合ってばかりいる長老たちの足もとのゴミを、わざわざ拾い集めていたほどである。それで、彼らの内一人は、猛然掃除を始めてくれた。

まあ、こっちもかなり追い込んだしな。

我ながら、なんとまあ、性格のワリー男よのう。

立っている若い奴には、“見に来たのか、手伝いに来たのか?”なんて聞く始末だった。

もっともこれは、「手伝いに来たのなら、何か仕事を与えてあげなければならない」と思ったからで、イヤミではなかったが。

でも途中、挨拶しに来られた長老たちには、

“今、掃除で忙しいから、終わってからにして下さい”などと、

言ってのけるのは、自ら“シェー!”と叫んで、“ミーは、おフランス帰りざんす”などと

言っているようなものである。

 

しかし、さすがに2時間かけて終わったら、すがすがしい想いに満ち溢れた。

みんなも晴れ晴れとした顔をしていた。その後、仏教委員会の長老たちと寺でミーティング。

 

ラカインの人たちは、良く言えば、金持ちのボンボンの末裔である。

人が良く、自己主張しないのところは、ベンガル人とまるで違う。 それはきわめて好感材料なのだが、ボンボンは、ボーッと見ているだけでなかなか動こうとしない。

これっ!そんなんじゃあ、弱肉強食を生き抜くベンガル人たちに負けてしまうではないか、わが仏教徒の諸君よ!。

ミーティングで長老方は、口々に掃除の礼を述べ、

さらにパコダの修復援助を期待をしている風だった。

しかし、率先実行でなきゃ、兵は動かんのよ。

ここに住むみんなで、実際に手を汚して掃除をしなけば、

パコダは完全にはきれいにならないし、すぐまた汚れるじゃん?

そんなことを考えると、失礼ながら手厳しい言葉を口にせざるお得なかった。

 

僕は“日本の仏教で掃除は一番大事な修行のーつです。

それに、たとえパコダを修復したとしても、汚れた状態では何にもならないと思います。 まずはご自分が動いて掃除を始めなければ、誰もきれいにはしないのではないでしょうか?

掃除はお金がなくても手があればできることです。(長老の皆さんたち、ナマ言ってごめんなさい!) パコダ修復については、皆さんの手による清掃のシステムが確立したならば、

例えば1年後とかに話し合いたいと思います。”と述べるにとどめた。

 

それでも未来に希望が持てたのか、ホッとする空気が、彼ら委員会の間に漂った。

UNIで出た結論 パコダについてはUNI内部でも、それまでずい分と話し合っていた。

ラジョー氏からは、「サザンペン」という日本の援助グループがするかも知れないと聞いた。

(僕は、ここの下川さんという人を通して、ラカインを知ったのだった) それで、「ならば、サザンペンによるパコダの整備が終了した時点で、もう一度考えよう。」

ということで結論が出た。

 

まずUNIには、「独自で行う直接の援助以外はやらない」という不文律がある。

それは、責任や目的があいまいになるのを防ぐためである。 また、今回のパコダの場合で言えば、誰がどこまで責任をもってやるのかが明確でなければ動けない、というのが、みんなの意見であった。

 

また、パコダ整備の目的は、仏教徒にとって大切な精神的支柱であるから行うのである。

だから、整備したパコダの入場料収入は、パコダ自身のために、

たとえば倒壊したパコダの修復を行うなどのために使われるべきではないか、

という意見も出た。これには、ラカイン側も賛成のようであった。 まあUNIとしては、ようするに「やるなら、何事もはっきりしてから、やりたいしな」

ということで、意見がまとまったのである。

 

夕方6pm 学生との二回目のミーティング

この時のミーティングで僕がまず一番に語り始めたこと。

それは、お互いに敬意を払い合うルールを決めることだった。

それは、“口にした言葉通りに行う”(言動の一致)こと。

例えば、6時の約束だったら6時には必ず来るというような、日常的な約束もそのーつだ。

人を尊重するのなら、人の時間もまた無駄にはできないはずである。

もっとも、日本でも沖縄タイムという言葉があるぐらい、南方系は時間がアバウトである。

しかしグローバルな活動(クリエイト)するつもりだったら、彼らにはぜひこの点をあらためて欲しかった。 自らの言葉に責任を持つこと。これは決して、彼らに対して一方的に要求することではない。

 

だから僕は続けた。 “われわれUNIもまた、皆さんに対して、口にした言葉を裏切らないようにします。 例えば、「パソコンを三台購入します。」と言えば、その通りに実行します。 できない約束はしません。その代わり、言えば言った通りのことをします”

 

人にぬか喜びだけさせたり、空約束をしておいて、後で平気で言葉を変えたり知らん顔をしたりする人がいる。 しかし、これをされると、人は自分自身の価値を低いものと見なすようになってしまう。

「自分には、約束を守られるほどの価値がないからだ」、と。 こんな想いをするのは、くやしく切ないものだ。

心ない言動で人の価値をおとしめてはいけないと、僕は常々思っている。

空約束をするのは、人を尊重していないのと同じことになる。 それで、敬意を払い合う関係確立のために、言動の一致を基本的なルールにしたのである。

また実際、それでこそ、クリエイティブな活動をしていくことができると、僕は思う。

 

僕たちは、学生たちにUNIの活動の支援を求めた。

例えば、援助している学校のある村まで先生の給料を届けたり、

雨漏りの修理をしたり、また里親と子供たちとのパイプ役になることなどである。

彼らは“そういうことなら、喜んでやる”という。 また、給料を運ぶのはボランティアだが、例えば雨漏りの修理は、

アルバイト代を出すことなどを伝えた。

会計士の勉強をしてる学生にはラカインUNIの会計を頼んだ。

 

次に懸案のパソコンを議題に上げた。

そしてこの時点で、ヨーロッパ、北アメリカ、日本の各UNIが、それぞれ一台ずつ、

ラカインのために計3台のパソコンを購入すると発表した。

(彼らがそのことを気にしているのがわかっていた。じらすのもイヤだったし・・・)

 

一瞬の間が空いたあと、心底からの安堵と共に、拍手が巻き上がった。

きっと、それまで半信半疑だったのだろう。

何しろ数日前まで、まったく予期しなかったできごとなのだ。

 

湧き上がるアイデア

ところで、彼らは、パソコン教室や英語教室を含めた活動スペースとして、

3000タカほどの賃貸物件を探していた。 さらに、ラカイン学生協会の会員数を聞くと、120名ほどだという。

そのあたりから、UNI側からあふれるようにアイデアが湧き上がりはじめた。

 

まず、会員から会費を徴収し、それで家賃を払うようにすることを提案した。

一人30タカ会費を払えば、それで家賃をペイできてしまうのである。

彼らが、“果たしてみんなに払ってもらえるかな?”と疑問を呈すれば、“そんなのは簡単だ。”と答える。

 

彼らにUNIで購入した3台のパソコンがあれば、そこをネットカフェにもする。

メンバーには、そのネットカフェの代金を割り引けば良いのである。 それならば、メンバーは何も学生に限ることはない。全ラカインが対象である。

この時、いろんな案が出たが、結局、メンバーは1ヶ月1時間無料というオリバー案で決まった。

 

パソコンの使い方がわからない人がいるけど・・・と言えば、それも簡単。

1時間無料で教えますというのでもいい。

または、パソコン教室の授業料の割引か、1回分を無料にすればよいのである。

 

カナダのリーなどは過保護のママよろしく。

“あれもこれも必要なんでしょう。みんなママが買ってあげますからね。

ええ、ママがうんと働けばいいんですから”などと言い出しかねない。 しかし、僕はあれもこれも援助して彼らの能力を奪いたくなかったので、ひたすら横から、咳払いでリーをけん制した。(まるでマンガだな)

 

ネットの接続料については、“三年間だけは責任を持ってサポートしますが、

それ以降は、打ち切ります。それまでには必ず、

しっかりと稼げるようなシステムを創りなさい”とハッパをかけた。

 

またUNIと学生協会が協力し合う組織の名前は、「Global Uni Community ラカイン」

としようということになった。(ついで、世界のUNI自体もこの方向で名前を変えたい。NPOは日本でしか通用しない言葉だし・・・)

 

その後は、「Global Uni Community ラカイン」のホームページの内容や、

世界各地のラカインをネットワークすること、またラカイン・イエローページを

作ることなども話し合い、ミーティングは終了した。

 

最後に、各自がミーティングのコメントをした。

何人かの学生が、“ラカインの明るい未来が見えました”などの、

まるでNPOユニで主催している、気と心の学校のワークのときのような言葉が出てきたのには、驚いたり感動したり。 学生会代表の“今まで闇の中を歩いて来て、ようやくー筋の光に出会った気がしました”

という言葉は、特に印象に残った。

 

学生たちが帰り、遅い夕食。その後は、さらにUNIの会計ミーティングまであった。

(これも、人間関係のいろいろとからむ難題があったが、

最後にひらめきのアイデアをみんなで話し合い、難なく解決した)

UNIの皆さん、「あしたのジョー」のように、“まっ白い灰になるまで”お疲れさまです。

 

12月21日 ダッカに向けて出発

実は今回の訪問では、ゆたかさんだけでなく、下痢や風邪などにかかる人が、実に40-50%にも及んだ。

それで具合の悪い3人は、運行があまり当てにならないバングラデッシュ航空の国内線で、ダッカまで行ってはどうか、という話になった。

ラジョー氏が電話をかけて調べてくれた。オフィスでは、明日は間違いなく飛ぶと言っているという。それに値段も6千円と安い。 12時間かかるミニバスで行っても、残りの3人だけで行けば、頭割りしても4千円ほどになってしまう。ならば、みんなで飛行機で行こうということになった。

 

しかし、ここに落とし穴が待っていた。

チケットを買い、空港のセキュリティも通り、搭乗口で待つこと2時間半。

とうとうダッカ行きの飛行機は来なかったのである。 空港で電話を借りてラジョー氏に連絡。あわてて来てくれたラジョー氏に、

のんびりと僕は言った。“やあ、ラジョーさん。ひさしぶりだねえ”

まあ、仕方がない。これが現実である。やむなくミニバスで再出発。 ところで僕は、16歳のころからヒッチハイクで全国を野宿して周っていたためか、どんなに荒い運転の車に乗っていても、基本的に恐怖を感じることがない。

当時は泥酔したトラックの運転手さんの深夜便にだって、平気で乗っていたのである。 気功協会の招きで中国の秘境を旅した時でも、今にも崖から落ちそうなバスに乗っていた。

その後、みんなが口々に、いかに恐怖で顔が引きつっていたかなどと話すのを聞いても、

“ふーん、そうだったんだ。”と思うだけで、まったくの他人事であった。

 

それが今回のダッカ行きのミニバスに限っては違った。

初めて人並みに、車に乗る恐怖というものを味わったのである。

“もしこれで、無事何ごともなくダッカに着けたら奇跡だよね”と、隣の席に座っていた、まひろさんに話しかけたほどである。 なんたってドライバー氏は、猛スピードで、歩道を使ってすら追い越しをかけるのだ。

対向車線を走るなんていうのは当たり前。

こちらの車線に車が走っていないのに、いつまでも対向車線を走っていたりする。  しかし、彼の正面衝突直前によける手編みは、あざやかなものであった。

もっともすれ違いざまに接触した時の不気味な音も耳にしたが。

この時は、対向車線の車が、こちらの車を歩道でよけたのである。

お前の辞書に、「歩道」とか「対向車線」という文字はないのかあ! それが超スピードで、しかも12時間続く。霧で視界がほとんどない時もあった。

いつもは怖がるまゆさんが、“あら、この人けっこう運転うまいわよ”なんて

能天気なことを言っている。きっと恐怖を通りこして、頭の回路が切れたからに違いない。

僕は固くそう信じた。

2am。 何と! 無事に、ダッカ着。不可能を可能にする男。

奇跡のドライバー氏であった。僕を人並みにしてくれて、ありがとう!

パコダ清掃の功徳か、はてまたアラーが偉大だったのか?

 

・・・そして翌朝、僕たちを乗せたタイ航空はバンコクに向けて飛び立った。

 

最後に

これが、今回のラカイン訪問の旅の記録である。

読んでくれた人がなるべく臨場感を感じてくれ、それこそ“行った気”になってくれればと思ってまとめてみた。しかし、この間に、僕たちが実際に体験した数々の興奮や葛藤、また感動などは、とても書ききれなかったというのが正直なところ。 実は僕などは、バンコクに帰る日ですら、プロジェクトのことを考えているうちに、

つい興奮してきて、コックスバザール行きのバスに乗って、戻りたくなってしまったほどである。

さて、この一週間は時間の密度がまったく違った。

ゆうに半年分はあったというのがみんなの感想である。 UNIとしては、いずれ多くの方にも、より危険なく

(例えばダッカ経由なら、大型ツアーバスで行くなど)同じような体験をしてもらえる

ツアーやワークキャンプ・プロジェクトを実現したいと思っている。ご期待頂けたらと思う。

 

何はともあれ、UNIの援助活動自体が、浄土宗和田寺・念仏サンガのプロジェクトである。

元来が仏教徒である彼らに、大乗仏教に対する抵抗はまったくないし、

僕らの中には使用されていないパコダのお堂をラカイン念仏三昧堂にするというアイデアすらある。

また、繰り返しになるが、ラカイン維新は、布施システム、ネットワークによる相互補完的な経済圏の確立、そしてラカインUNI銀行(グラミー銀行のようなもの)の支援による、

新しいビジネス・モデルの創造が三本柱となるだろう。

 

そこで余談になるが、相互補完的な経済圏は、NPOアースキャラバンが地域通貨によって生みだそうとしているものだ。

しかし今回僕が実感したのは、相互補完的な経済圏の確立は、第三世界こそ必要としている、ということだ。(地域通貨の発生を考えても、経済の破綻したことがきっかけであった。)

したがってラカインにおいても、まず経済的な方面から入り、その後、やがて新しい気と心の哲学の浸透や、さらに念仏の弘通にまで及んでいくという流れになると思う。

 

余談になるが、なぜ、大乗仏教や念仏の普及が東南アジアにも必要なのか? 余計なお節介ではないのか?

と思われるかも知れない。(以前は、僕もそう思っていたので、そんなことは、ついぞ考えてもみなかった) しかし上座仏教(小乗)とは、霊的エリート主義の教えである。

一般の人々は信仰に篤いが、実は仏教に対して、

「お寺に喜捨することによって、来世には良いところに生まれる」という希望しか持ってはいないのである。

(まあ日本では、その希望ですらあまり持ちにくいのかも知れないが、それはさておき・・) しかも例えば、アジアのある国では、ハンセン氏病に罹患した患者は、“過去世のカルマ”として、寺や僧侶にすら忌避される。

僕は、彼らや身体に障害を持って生まれた人たちが、そんな烙印を

押されて差別されて欲しくない、と思う。

 

一方、大乗仏教、ことに念仏門においては、どの存在にも平等の浄土往生が約束されている。

一切が無条件に救われる。そして、もし本当にその心で弘通したならば、

それは、インドの低カーストを含む“過去世のカルマ”を理由に虐げられ来た人々にとって、

どれほどの救いとなるだろうか?

 

僕は日本仏教の末席を汚すものとして、法然上人が開いて下さったこの弥陀の福音を、

第三世界の、特に下層の人々や差別されて来た人々にお伝えすることができたなら、

どんなに良いかと心から思う。

 

さて、ラカインの話に戻るが、いろいろな懸案事項がある。

しかし、それとは別に、現在、先生たちの給料が払えずに閉鎖されている多くの学校があると聞く。

 

もし、UNI子供の家のように生活全部のサポートでなく、学費の援助だけであれば、

月1500円(UNI会費500円含む)のチャイルド・スポンサーが20人集まれば、

学校を1つ増やすことができるのである。

 

布施システムの導入は、大学入学以降ということになるが、そうして、閉鎖されていた小学校を1つ1つ開いていくことができれば、どんなにか子供たちの顔が輝くことだろうか。

これもまた、僕は心からそう思う。